一休宗純 -親鸞聖人に憧れた他宗の僧たち-
出生地は京都で、出自は後小松天皇の落胤とする説が有力視されている 。『一休和尚年譜』によると母は藤原氏、南朝の高官の血筋であり、後小松天皇の寵愛を受けたが、帝の命を狙っていると讒言されて宮中を追われ、民間に入って一休を生んだという。
幼名は、後世史料によると千菊丸。長じて周建の名で呼ばれ狂雲子、瞎驢(かつろ)、夢閨(むけい)などと号した。戒名は宗純で、宗順とも書く。一休は道号である。
6歳で京都の安国寺の像外集鑑(ぞうがいしゅうかん)に入門・受戒し、周建と名付けられる。早くから詩才に優れ、13歳の時に作った漢詩『長門春草』、15歳の時に作った漢詩『春衣宿花』は洛中の評判となり賞賛された。
応永17年(1410年)、17歳で謙翁宗為(けんおうそうい)の弟子となり戒名を宗純と改める。ところが、謙翁は応永21年(1414年)に死去し、この頃に一休も自殺未遂を起こしている。応永22年(1415年)には、京都の大徳寺の高僧、華叟宗曇(かそうそうどん)の弟子となる。「洞山三頓の棒」という公案に対し、「有ろじより 無ろじへ帰る 一休み 雨ふらば降れ 風ふかば吹け」と答えたことから華叟より一休の道号を授かる。なお「有ろじ(有漏路)」とは迷い(煩悩)の世界、「無ろじ(無漏路)」とは悟り(仏)の世界を指す。
応永27年(1420年)、ある夜にカラスの鳴き声を聞いて俄かに大悟する。華叟は印可状を与えようとするが、一休は辞退した。華叟はばか者と笑いながら送り出したという。以後は詩、狂歌、書画と風狂の生活を送った。
正長元年(1428年)、称光天皇が男子を残さず崩御し伏見宮家より後花園天皇が迎えられて即位したが、この即位には一休の推挙があったという。文明6年(1474年)、後土御門天皇の勅命により大徳寺の住持に任ぜられた。寺には住まなかったが再興に尽力し、塔頭の真珠庵は一休を開祖として創建された。また、戦災にあった妙勝寺を中興し草庵・酬恩庵を結び、後に「一休寺」とも呼ばれるようになった。天皇に親しく接せられ、民衆にも慕われたという。
文明13年(1481年)、酬恩庵(京都府京田辺市の薪地区)おいてマラリアにより死去。享年88。臨終に際し「死にとうない」と述べたと伝わる。墓は酬恩庵にあり「慈揚塔」と呼ばれるが、宮内庁が御廟所として管理している陵墓であるため、一般の立ち入りや参拝はできない。
自由奔放で、奇行が多かったといわれる。以下のような逸話が伝わっている。
印可の証明書や由来ある文書を火中に投じた。
男色はもとより、仏教の菩薩戒で禁じられていた飲酒・肉食や女犯を行い、森侍者(しんじしゃ)という盲目の側女や岐翁紹禎という実子の弟子がいた。
木製の刀身の朱鞘の大太刀を差すなど、風変わりな格好をして街を歩きまわった。これは「鞘に納めていれば豪壮に見えるが、抜いてみれば木刀でしかない」ということで、外面を飾ることにしか興味のない当時の世相を批判したものであったとされる。
親交のあった本願寺門主蓮如の留守中に居室に上がり込み、蓮如の持念仏の阿弥陀如来像を枕に昼寝をした。その時に帰宅した蓮如は「俺の商売道具に何をする」と言って、二人で大笑いしたという。
正月に杖の頭にドクロをしつらえ、「ご用心、ご用心」と叫びながら練り歩いた。
こうした一見奇抜な言動は、中国臨済宗の僧・普化など唐代の禅者に通じ、禅宗の教義における風狂の精神の表れとされる。同時に、こうした行動を通して、当時の仏教の権威や形骸化を批判・風刺し、仏教の伝統化や風化に警鐘を鳴らしていたと解釈されている。彼の禅風は、直筆の法語『七仏通誡偈』が残されていることからも伺える。
このような戒律や形式に囚われない人間臭い生き方は、民衆の共感を呼んだ。江戸時代には、彼をモデルとした『一休咄』に代表される頓知咄(とんちばなし)を生み出す元となった。
一休は能筆で知られる。また、一休が村田珠光の師であるという伝承もあり、茶人の間で墨蹟が極めて珍重された(なお、珠光の師という説は現在の研究ではやや疑わしいとされる)。
著書(詩集)は、『狂雲集』『続狂雲集』『自戒集』『骸骨』など。東山文化を代表する人物でもある。また、足利義政とその妻日野富子の幕政を批判したことも知られる。
門松は冥土の旅の一里塚めでたくもありめでたくもなし
釈迦といふ いたづらものが世にいでて おほくの人をまよはすかな
秋風一夜百千年(秋風のなかあなたと共にいる。それは百年にも千年の歳月にも値するものだ)
花は桜木、人は武士、柱は桧、魚は鯛、小袖 はもみじ、花はみよしの
女をば 法の御蔵と 云うぞ実に 釈迦も達磨も ひょいひょいと生む
世の中は起きて稼いで寝て食って後は死ぬを待つばかりなり
南無釈迦じゃ 娑婆じゃ地獄じゃ 苦じゃ楽じゃ どうじゃこうじゃと いうが愚かじゃ
幼少期は頓知小僧で、青年期に厳しい修行を積んで名僧となったという逸話が多い。子供向けの物語では、特にこの傾向が強い。また、幼少期の逸話には頓知で和尚や足利義満をやり込める話が添えられることが多い。これは『一休咄』と史実の一休を一つの物語にしており幼少期については史実から遠いと言えるが青年期以降のエピソードのみでは堅い話となるので、親しみを持たせるためにこのようにしたと思われる
浄土真宗中興の祖である蓮如上人と交流を深くしていた一休宗純。一休は蓮如上人よりも21も年上。加えて浄土真宗ではなく臨済宗。にも関わらず、親鸞聖人の二百回忌法要には一休も参詣者として訪れる。
一休宗純は、親鸞聖人を熱烈に敬愛していたと伝えられています。理由は、宗教的なことと云うより、人柄にあったようです。世俗坊主、生臭坊主と揶揄されていた親鸞上人に自分を重ねていたとも云われています。
二百回忌法要で一休が歌ったという、次の和歌があります。
「襟まきの あたたかそうな黒坊主 こいつが法は 天下一なり」
親鸞聖人の御影前に対して、なんと破天荒な和歌でしょう。この砕けたところが一休の本領です。
浄土真宗の本願他力に惹かれている様子も良く伝わってきます。
蓮如上人が布教中によく滞在されていた聞光寺があります。その近くには小林寺があり、そこには一休がよく滞在してました。聞光寺は、そんな蓮如上人と一休の交流の場。
一休は幾度となく蓮如上人の法話を聞き、次のような考えを持つに至ります。「自分が求めているのは禅の道である。しかし、最後には南無阿弥陀仏の念仏の教えに帰すだろう」
一休は亡くなる際、弟子に遺言を残します。それは、念仏の中陰(四十九日の法要)を蓮如上人にしてほしい、というもの。
その遺言どおりに、一休の弟子は蓮如上人に念仏を頼みます。しかし、その頼みを断る蓮如上人。
いわく、法は現身に説くもので死んでからでは意味がない、と。親鸞聖人の教えでは「平生業成」と説かれています。
そして良寛