「未来の宗教は宇宙の宗教だろう。個人の神、教義、神学を超えたものであるべきだ。自然と精神の両方を扱い、深い統一感としてのすべての自然と精神の経験からわき上がる宗教感覚を基礎とするべきだ。仏教はこの要請に対応している。もし科学的事実の要求に対応できる宗教があるとするならばそれは仏教であろう。もし人々がただ罰を恐れるから、見返りを望むから良いことをするならば、それは本当にとても情けないことである。」
アルバート・アインシュタイン
阿弥陀仏とはどんな仏様でしょうか。
仏教をとかれた釈尊は、この地球上にあらわれた仏様ですが、阿弥陀仏はそうではありません。阿弥陀仏と釈尊との関係について、蓮如上人は次のように仰言っています。「ここに阿弥陀如来と申すは、三世十方の諸仏の本師本仏なれば」(御文章)三世十方の諸仏とは、大宇宙にまします、数え切れないほどの仏方のことです。本師本仏とは先生、ということです。ですから、阿弥陀如来は、大宇宙の仏方の先生、ということです。地球にあらわれたお釈迦様も十方諸仏のお一人ですから、阿弥陀如来と釈尊との関係は、先生と生徒、師匠と弟子となります。
弟子の使命は、先生の願い、先生の御心を、一人でも多くの人にお伝えすること以外にありませんから、弟子である釈尊は、一生涯、自分の先生である阿弥陀如来の本願一つをとかれたのだ、と親鸞聖人は、断言なされました。
阿弥陀さまは、私たちにはとても量り知れない光(無量光)といのち(無量寿)の仏さまです。すべてのいのちを救われる阿弥陀さまのことを、古代インドの言葉である梵語(サンスクリット語)では「アミターバ、Amitābha(限りない光)」「アミターユス、Amitāyus(限りないいのち)」と申し、後に「アミタ、Amitā(無量=量ることができない、限りがない)」が「阿弥陀」と音写されました。 無量という無限大の広々とした名号(「南無阿弥陀仏」)の世界です。
永遠に変わらない、過去も、今も、未来も不変の真理である「あるがまま、ありのまま」の無上の仏さまは「真実」そのもので、色も形もおありではありません。それゆえ、私たちにも「真実」が認識できるように声、「南無阿弥陀仏」という姿形をもって現れられた仏さまが「阿弥陀如来」です。このように申しますと、私たちの幸せのために限りなく尽くされる、この上なく慈悲深い姿形の阿弥陀さまは、具象化し人格化された仏さまのように見えますが、実はこの仏さまこそ私たちに認識できる真実、宇宙のいのちそのものなのです。その「真実」は「阿弥陀仏」と名づけられ、「無量光仏」「無量寿仏」と表現されたのです。
お釈迦さまが、「人生は苦しみです」と仰せられたように、苦しみというものは数限りがありません。生・老・病・死の四苦に愛別離苦・怨憎会苦・求不得苦・五蘊盛苦の四苦を加えたものを八苦と申します[(人生という旅 )] 。それぞれがたいへんな苦しみですが、阿弥陀さまは、その一つひとつの苦悩に大慈悲をもって接していてくださいます。例えば、愛別離苦という切なく悲しい、忘れることもできず、どうすることもできない苦しみ一つをみても、大慈悲の救いの手が差し伸べられています。阿弥陀さまは無量の仏さまですから、いかなるものも、量り知れなく限りない阿弥陀さまの救いの手を、光といのちをさまたげることはできません。ですから、すべてのいのちが、光といのちに照らされて輝くのです。そして、無常なるこの世では、どのような形にしろ必ず別れゆかなければならないすべてのいのちが、みんな救われて安らかで浄らかな一つお浄土に生まれるのですから、みんな再び出会えるのです(倶会一処)。死別した愛する人、つらい別れをした人、会いたくてももう二度と会えない大切な人・・・・・、みんな再び出会えるのです。この世では色々あったけれども、一切の執着を離れ、慈悲ばかりの心をいただいた、いのちといのちの出会い(出遇い)です。それはまさに、「すべてのいのちあるものを仏にしたい」という願いを起こし、その願いを成就された阿弥陀さまの世界です。
私たちの苦しみや悲しみを自分の痛みとされ、どうしても「あなたを助けます」と行動を起こされた阿弥陀さまのことを、「不可思議光如来」とも「無量寿如来」とも申しあげます。広々と量り知れない、限りない光(智慧)といのち(慈悲)の如来さまです。「如来」さまとは、梵語で「タターガタ、Tathāgata」と申し、「真如(あるがままの真実・真理そのもの)から、このようにやって来た」という意味で「はたらき」をあらわす言葉です。要するに「永久不変の真理、法性、真〈如〉」の世界から、形のないものを受け入れることができない私たちのところへ、真実を知らせるために「現れ〈来〉られた」仏さまのことです。
私たちのところへ「南無阿弥陀仏」の名号となって来られた阿弥陀さまは、ありとあらゆることに尽くされて(尽十方)、どんな悪業にも煩悩にも、何ものにもさまたげられることのない智慧と慈悲の光明をもって(無碍光)、すべてのいのちを救い取られる仏さま(如来)です。それゆえ、「南無阿弥陀仏」の名号を「帰命尽十方無碍光如来」とも申しあげます。
名号を拠り所に生きる私たちは、阿弥陀さまの「お働き」である無碍光如来の名(南無阿弥陀仏)を聞き称えつつ(大行)、阿弥陀さまの本願に救われた日々を過ごします。そして、すでに私のこの身を引き受けて立ち上がっていてくださる阿弥陀さまに(阿弥陀仏)帰依し、私のいのちのすべてをおまかせ(南無)して、この人生を生き抜きます。
阿弥陀さまは、私を助けてくださるあたたかな存在です。私たちは、私を助けてくださる光といのちに気づき、ただその思いを受け取るだけです。
私たちには認識することが難しい「空」「無我」「縁起」「自然(じねん)」という一切の執着を離れた真実(宇宙の真理、実相、自然の道理)と、すべてのいのちを救い取られる「阿弥陀さま」は、違う事象のように見えますが同じ真実です。
このことは、きわめて大切なことです。
真実に目覚め、そのさとりの内容を伝えてくださった「お釈迦さま」の教えによって、私たちは真実に触れることができました。生きていることを、生かされていることを自覚できる今こそが、私と量り知れない宇宙という無限の空間が一体であることに気づくことのできる、またとない機会です。すべての事象が縁起している世界であるという無常の法に気づかなければ、限られたこの世の私の存在と、永遠のいのちとの出遇いに気づくこともないでしょう。私の知識では心も言葉もおよばない宇宙の生命力、「真実そのもの(法性法身)」が、色や形をたよりに生きている私たちのために、「阿弥陀さま(方便法身)」という光の姿形をもって表れられ、情感の世界で触れ合い、すべてのいのちをお救いくださるのです。私たちは、「南無阿弥陀仏(阿弥陀如来)」というお姿(一切の衆生を救いたいと願う存在)に触れる縁を通して、真実に触れたのです。私たちは、いのちの拠り所を、人生を歩むうえでの支えを得たのです。